JRR※LK                                昭和五十四年八月九日 朝の御理解
御理解 第五十節 「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地          が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなも          のぞ。」
 常平生からの信心とか、ただ常平生にお参りしております、おかげ受けておりますという事ではないと思う。
 常平生、いうならば、心が肥えるような信心。神様を信じて疑わない信心、信ずる心。だんだん真心も篤うなって、いわゆる真心(しんじん)。又はその心が神心(しんじん)。そういう信心をしなければ、ただ参りよります、拝みよります、というような信心では、ひとりでに物が出来るというような事にはなって来ない。それでは心は肥えない。心がいよいよ豊かに肥えてくる。ね、そこにはね、確かに、ひとりでに物が出来るようなものぞ、という程しのおかげがね、頂ける事をおかげを頂いている人達が実証しておるわけです。又実証して行かなければいけません。
 なる程、ひとりでに物が出来るようなものだ。だから、拝みよりますとか、ただ、参りよりますというような事だけではいけん事が分かる。ね、はっきりとおっしゃっております。「とかく、信心は地を肥やせ」と。
 地という事は、心という事だと思いますね。自分の心を肥やせと。だから自分の心が肥えてくる、豊かになってくるようなおかげを頂かにゃならん。だから、お参りをしておかげ頂いとりますだけの信心では、ひとりでに物が出来るという事にはなってこない。
 私は、今朝から、こういうようなお夢を頂いた。
 『ある方が、沢山な人の招待をしておられる。もう、会席膳が、ずらっと、並んでおるのです。所が時間がまいりましたけれども、三分の一位しか来てない。それに、「こんなに、沢山あまらかしたんじゃ勿体ないけん、家の孫達なっとん、呼んで来てからち、」いうて、孫さん達が、その方の孫さん達が何人か、そこに座っておる。
 孫達は喜んでおるけれども、それとても、食べきれない程に、お膳にのっておる。 丁度、その横を通りあわせた知人の方が、勿論、招待はしてないけれども、「貴方ちょっと寄っておいでなさい」と「沢山お膳があまっとるけん頂いていって下さい」というてね、呼び止めてから、お膳に座らせた。それでも、まあだ、半分以上は、残っておるというような雰囲気であった』
 そして、今朝の、御理解を頂いて、それと、これと結びつけてみるとです、例えばこうやって、皆さんが聞いて下さる話はいうのは、それこそ、いうならば、会席膳にのったおごにそうのようなもんじゃないでしょうか。
 それを、頂いて帰らずに、ただ聞いて帰ったというだけではね、見て帰ったようなものである。御神縁を頂くという事は、いわば、招待を受けたようなものではないでしょうか。神様がおかげを下さろうとする働きが、様々な難儀とか、様々な示現活動を受けて、合楽に御神縁を頂かれる。そして神様は、どうぞ信心して、おかげを受けてくれよと願うように、頼むようにいうておられるのが、今こうやって聞いて頂いておる御理解だと思うんです。
 だから、その御理解を本当に有り難かったとして頂いて、それを、有り難いおかげにするという。それを、実験して実証していかなければ、いうならば、おごちそうが身につかないと。ね、そういうごちそうを頂いておるから、いうならば、心が肥えてくるというのじゃないでしょうか。ね、
 しっかり御理解を頂いとりますから、耳だけは肥えておる。それこそ、和尚のような事がいう事は、出来るようになるんだけれども、耳だけが肥えたのでは、おかげになりません。心が肥えなければいけません。                   こんなお話があります。ね。地獄、極楽行きの観光バスが出るというて、まあ、見物に行った。ガイドさんがずっと、「これが、針の山でごさいます、これが、血の池地獄でございます」と説明して廻っとる。丁度、別府に行って観光して廻っとるようなものですよね。所がそこに、なば(茸)みたいな山がいっぱい山んごつある。「あれは何ですか」と聞いた所が、ガイドさんいわくです、「あれは耳の山というてですね、生前に後世願いをする、一生懸命お寺さんに参って、お説教だけはそうな聞いた 所が、実行はせんで耳だけが肥えとる。だから、耳だけが極楽行きしとる」というて、まあ、話がありますが、ね。耳だけが極楽行きしとる。
 やあ、有り難かったというただけでは、耳だけがおかげ頂いとるという事になるのです。ね、聞いた事が、実行の上に現らわされていかなければならない。
 今朝から、私お知らせを頂いたんですけれども、ある、まあ、よくは分かりませんけれども、お道の教師、丁度、御大祭の時にここで御神誡というのを読みますよね。 お道でいう御神誡というのは、十戒とか、五戒とかいうのとは違うですよね。教典を見て下さい。これはなそうと思えば誰でもなせるような事が十二ケ条。御神誡。ね 一、幼少の時を忘れて、親に不幸の事。といったような、いうなら、親に不幸をしてはならないよ、孝行しなければ出来ないよ、といったようなその教えが十二ケ条。 これが金光教の、十二ケ条の御神誡である。本気でそれを守ろう。本気でここが出来ていない事に気付いたら、早速、実行に移られるような教えばっかりである。
 『その御神誡の巻物をこうやって開いて、丁度、勧進帳の弁慶があの勧進帳を開いた時のような恰好です。そして、御神誡、教えを見らずにね、首をこんなにひねっておる所』を頂いたんです。これを見てない。ね、そして、首ばこうやってひねって、これから以上は、ひねられんでしょうが。ね、
 私は、その事を頂いてから、はあ、「信心は容易いものじゃが、氏子から難しゅうする」とおっしゃる事が一段と改めて、分かったような気がします。信心をさして頂いて、教えの道を分からしてもろうて、教えの道を辿る事が、一番容易です。楽です 有り難いです。勿体ないです。ここにはリズムが出来てくるです。調子に乗って、歌うたうように、容易です。お道の信心の教えというのは。
 所が、教えには目もくれず、とにかく、見らんで首ばこうひねっとる。これから先は、ぐるっと廻りぁせんもんね、首は。見せるというと、こげなふうに、もうこれ以上は廻らん、こげんきつい事はないという事。なる程信心を容易うするという事は、教えに、いよいよ取り組んで、教えの道を辿らせてもらうという事が、一番容易いんだ、そして、有り難いんだという事になるんです。だから、問題は、それは、例えば十二ケ条の御神誡ならば、御神誡だけでも、本気で頂いて、守らせて頂く生き方になったらね、信心は容易いもんだという事が分かって来ます。
 いや、今日の御理解から、必ず、心が肥えてまいります。それこそ、ひとりでに物が出来るように、必要な物が必要に応じて頂けるようなおかげに、必ず、繋がります 神様は、どうぞ立ててくれよ、おかげを受けてくれよ、というて招待状まで出しておられる。それが、皆さんこうやってお参りしておられるのが、そうだと思います。ね、まあ、そういうような深い意味あいがあろうと思いますけれども、折角、神様が下さろうとしていおるお膳部には目もくれずに、頂かんで帰る。例えば、それは、なる程、お客さんを招待して、そして招待人が全部来て下さる位、気持ちよい事はないでしょうが。皆さん。
 神様が、本当にその教えを頂いて、おかげを頂いて神様のおかげで助かった。金光大神のおかげで助かったといえば、神も喜び、氏子も喜び、金光大神も喜びじゃとおっしゃる。皆が喜べる手立てというものが、教えにあるのですけれども、それを、頂こうとしない。招待を受けとるけれども、招待をいうならば、時間を遅らかしたり、又は、それを、頂く事が出来なかったり、もう神様としては、がっかりという事ではないでしょうか。神様に悲しい思いをさせるという事になるのじゃないでしょうかね ひとりでに物が出来るようなおかげ。そういうおかげを皆さんに、頂いて、頂きたいと思う。
 昨日、私の方の孫が、今幼稚園に行っておるのがいます。恵城といいます。テレビを私と一緒に並んで見よりましたら、いろいろタイトルが出てまいりますがね、その片仮名と平仮名だけは、もう全部読むんです。「あら、あんたはいつのまに、そげん覚えたつの」というたら、「覚えた」ち、こういうわけなんです。「漢字も僕は知とるよ」と、漢字も時々読むんです。その、私は、あのう、テレビを見て終わりますと「おわり」と出るでしょうが、ね。映画なら映画が一つ終わると「おわり」と書いてある。おわりと書いてある。おわり、「なら、あんた、おわりちゃどういう事か知とるの」ちいうたら、「明日又あるよ、ちいう事よ」というですよ。
 私は、明確な答えに感心しました。「おわり」とは「又明日ある」という事だよ、とこういうんです。私共の日々の人生というものは、ね、一日を終わらせて頂いた時に、又、明日があるんだという、その続く所のおかげを頂きたいです。
 例えば、終わった。そして又明日がある。実をいうたら、これは大変な事なんです ひょつとして、目が覚めなかったら、もう、そうすりゃ、明日というのはないわけなんですからね。今日こうやって目が覚めた、今日こうやってお参りが出来たという事は、大変なだから有り難い事なんです。
 私は、人生とは、いうならば、神様が御演出下さるドラマのようなものだと思います。ね、だから、今日一日は終わらして頂いた。そして、又、明日という明日に、願いをかけなければいけないと思うんです。ね、
 様々な、いうならば、人生をそのドラマのようなものですから。その中で、私共がどういう役を受け賜るかという事を、一つ、思うてみなければならないです。出来得るならばです、その主役を演じたい。そして、悪人の役でなくて、善人の役を受け賜りたい。
 私共の今日は終わった。そして、それは明日に連ながる。今日もおかげ頂いた。明日もどうぞ神様が御演出下さる所の、いうならば、筋書きを書いておって下さるその筋書き通りの、生き方をさして頂こう。その筋書きの中には、有り難い、勿体ない、本当に今日もおかげ頂いてよかった、というような筋書きが、それぞれの上にあるという事。だから、その筋書きを、私共が教えに基ずいて行ずる所にです、今日も、一日有り難い役を受け賜ったという、そういう日々が積もり積もって、私は、心が肥えてくるんだと思います。
 信心とはとかく心を肥やせ、ね。とかく信心は、地を肥やせ、地が肥えておれば、ひとりでに物が出来るようなもの。だから肥やす事を惜しんではならない。それもです、私が、今日、お夢にお知らせ頂きましたようにです、信心の教え、そこに道をはっきり分からせて頂いて、その道を歩く事が一番楽しい、有り難いんだと。
 信心は難しいもの、というのは、その教えを見ようともしなければ、行じようともしないのが一番難しい。それこそ、首が廻らんちいうような事になっくるわけ。これ以上首が廻されんとじゃん。
 御神誡なら、御神誡にちゃんと目をかけて、それを頂いて行じていくならば、こんなに楽しい事はない。そして、いうならひとりでに物が出来るようなおかげにも、繋がってくる程しのもの。この世だけではない。あの世にも持って行けるものが頂けれる信心を、本気で身につけたい。天地の親神様が、私共に、どうぞ信心しておかげを受けてくれよ、とおっしゃるおかげとは、そういう事だと思う。
 常日頃からの信心。ここにもいうておられます。常日頃からの信心とは、参りました、拝みました、おかげ頂きましたというものじぁない。
 信心。信心さして頂く為には、信ずる心が強うなってくる。真心が強うなってくる 神心がいよいよ自分の心の中に、自分で自分の心が拝みたいような心が育ってくる それにはね、神様が用意して下さる所のお膳部を、お粗末にならんように頂く。それが、血、肉、になって、はじめて心が肥えるという事になるのじぁないでしょうかね。
  どうぞ。